草体にぼ日記

だらだらと

【君だけの理想な自分語りを届けよう】究極の自分語りサービス~はてなブログ~ 1/1

未推敲。今後も一生推敲することはないと思う。
部屋探しとか家具家電選びについてまた記事書きます。

序章

おはようございます。
現在は2023年3月15日14時40分です(自社調べ)。


本日はお日柄も良く、このような場で皆様とお会いできたこと、心よりうれしく思います。

さて、本日私がこうして筆をとった理由といたしましては、新店舗開店のお知らせをさせていただきたいわけではなく、 自分語りをするためです。

実は私、10分ほど前に学部の研究の最終報告を終えたところでして、これで晴れて大学から、(あるいは学校というものから)解放されたことになります。 23年間(小中高大+1浪、まぁ赤childの頃は学校行ってないけど)、乗り切りました。
正確に言うとまだ解放されていなくて、スライドの修正と研究室サーバーへのバックアップ、卒業式への参加などがありますが、まぁ些細なものです。

突然ですが、ここでなぞなぞです。どれくらい些細でしょうか? 答えは、この記事を読み終わったとき、あなたの心の中に残っているものぐらいです。

序章の次の章

よし、序章も終わったところで、自分語りしていくか~~!!!
浪人時代~大学卒業までこんなことがあったよ~!!っていうのを話していこうと思ったんだけど、なんとなくで高3から書いていこうかな。
記事を3,4個に分けようかなと思ったけど書くことそんなにあるかわからないからとりあえず1つの記事にたくさん文字書く!

まぁ、一つの記事に何万文字も書いてあったら読まないだろうなぁ…
まぁいいや、やっていきます

0歳

にぼし「´ω`)ノこんぬづわ」

愛知県名古屋市のどこかの病院で生まれました。

これから3年間、ここで過ごします。

3歳

架空の幼馴染「いかないで!!」

にぼし(無意識)「神奈川県に引っ越す」

高3

神奈川の山のほうにある、普通の公立高校(偏差値55程度で進学校とかじゃない)に通っていました。
この学校の特徴としては、制服が喪服(と言われていた)っぽかったり、正門に通ずる坂がきつすぎたり、近くにサイゼリヤがあることが特徴です。
数オリとか情オリとかいうワードはここで1回も聞いたことないようなところですが、別に嫌いじゃないです。
しいて言えば、2年と3年の時に担任だった先生が、物理のプリント中の式において == って書いてたんですね、その時に「プログラミングの癖で間違っちゃった><」とかわけわからないことを言っていたことぐらいが、今の自分視点の良いエピソードですね。

高3の思い出(高2かも?)としては、前期中間試験で寝坊して、担任から「舐めてるの?」と言われ激冷えしてしまったことですかね。マジで怖かった。ごめんなさい。(ちなみに、水泳の授業後に塾に行くのがいやで、水泳がある日は学校休んでいたりしたので、舐めていると思われるには十分だった。)
休んだ後に学校行くのって結構怖いよね、けっきょく休みあけ学校行ったところでだれも責めてこないしフランクに話しかけてくれるんだけど、気持ちの問題がね。

友達エピソードとしては、夏に塾で「講習取れよ」みたいな押しを受けていて、うざいなあって思ったことをきっかけに?なんか塾のフロントを通るのがいやになって、塾に行くのが嫌になったときがありました。その時にクラスメイトのS君(オ72-した後にティッシュで雑にTink〇拭いてたら血でちゃったWWとかLINEするような相手)に話をしたら、やめたらいいじゃん。って後押し?されたことですかね。それで塾辞めました。

もう一つの友達エピソードがここで関連して出てくるんですけど、(今度は小・中同じだった人の話)俺が塾辞めたタイミングで、M君も大学辞めてました。 ウケる。
辞めることを決めた後の土曜日の塾の授業が終わった後に、最寄のショッピングストアの屋上を散歩してたらアイス食ってるM君がいて、「塾辞めるんだよね」って言ったら「え、俺もW」みたいな会話をした覚えがあります。
ちなみにこのM君は今でも仲が良いと思っていて、一緒に浪人しました。

高校時代の主なイベント(高3以外)も雑にまとめます。

  • 高1夏前:AVAというFPSゲームで、学生クラン(AVA LeaPとかで調べたら出てくる)に加入する。このクランの人と今でも旅行行ったり一緒にゲームしたりしている(最近はあんまりゲームしてない)。ちなみにここのクランの一人と同じ大学で同じ学年・学部・学科
  • 高2夏前:なんとなく(母親の声?)で名古屋大学の薬学部を目指していたが、長男に「薬剤師なりたいの?」と聞かれる。分からない。お金が稼げればいいやと思っていた。
  • 高2夏:名古屋大学オープンキャンパスにM君と行く。(ついてきたお礼に橋1個大学のオープンキャンパスに付き合う)。ここで、情報学部というものの存在を知り、おもしろそうじゃん。となる。名古屋大学の情報学部を志望校にする。
  • 高3夏後:塾辞める。(ついでにM君が志望校を俺に合わせる)
  • 高3夏後2:塾辞めて開いた時間で配信見たりしてた。PUBGをクラン(先述)の人に奢ってもらう。
  • 高3年末年始:壺男を買う。年末は壺男してました。
  • 高3受験:名古屋大学前期落ちる。後期名古屋工業大学も落ちる。英語リスニングの人参間違えた。受験勉強としては、まったく志望校の水準の学力に達していなかったと思う。(英語の学力だけはクラスで1番レベルだったが、言うても公立高校の偏差値50ぐらいなので)

浪人時代

まぁ、普通の人は大学に落ちると、大学の再受験を志すわけです。いわゆる浪人生という職業に就きます。
浪人時代前半の思い出としては、ファミリーマートでバイトをして、夏に駿台の夏期講習にバイト代で参加しました。そのバイト代でほぼ毎日スタバに行って500円もする飲み物を1日2杯ぐらい飲んでました。バイトがない日は温泉に行って(1日いても料金変わらない)、入湯量と岩盤浴でお金を溶かしてました。バカです。
予備校は入っていませんでした。(2回もやめたという嫌な思い出があったから。(←高校受験の頃も塾辞めてる))

センター試験の結果としては、青パック(センター試験の模試集みたいなやつ)で数学が100点近く取れるようになってたのに、本番で1Aも2Bも70点とかだったのが本当に嫌な思い出としてあります。また、倫理政経も雑に勉強したのに60,70点ぐらいだったので不快な思いでです。
センター試験が8割取れてるのが名古屋大学の目安なのですが、7割ぐらいしか取れてなくて(現役から50点ぐらいUP)、二次試験の自信も全然なかったので、志望校を地方国立大に変更しました。
2次試験の受験科目が英語と数学で、しかも数学は簡単な複素数が毎年の傾向として出ているだけだったので、2次試験対策めちゃくちゃ楽じゃん…と思った記憶があります。
悲しい思い出としては、センター試験の自己採点(他者採点)をM君(先述のM君)と一緒にやったですが、センター試験の点数を見て俺は「俺名大ダメだ。志望校変えるわ」って感じな話を温泉でしたら、ショックというか落胆されました。
なんか、小学校時代から地味に俺が勉強出来てすげーと、尊敬していたらしく、それなのにセンター試験の点数低いからって志望校変えるのか…みたいな感じでがっかりされました。
当時の俺としては、おめぇセンター9割取ってるから名大行けるかもしれないけど、こっちは7割やぞ。最近はセンター試験の対策で2次試験対策もできていないし、物理・化学の問題集もマジで全然解けないから絶対無理だよ!と思っていたのでうるせぇ!行かない!(ドンッ!)帝京平成大学!って感じでした。
これがきっかけで、1年間か2年間、連絡を取らなくなります。

浪人時代まとめ

  • 5月:Twitterの人に競プロの存在を教えてもらう。iPadでAPG4bを5問くらいやる。それだけ。
  • 夏まで:ファミマでバイト
  • 夏:神奈川の海に高校のクラスメイト4名で行った。人多くてクソ汚かった。都会の海には二度と行かないと決めた。
  • 年末:39度くらいの熱。めちゃくちゃ吐いた(10回くらい)。多分徹夜でインフルのワクチン打ったのが原因。
    • チョッパー「ワクチン前はしっかり寝よう。医者の俺が言うんだから間違いない」
  • 受験:志望校を変えて前期試験で地方国立大に受かる。(ちなみにM君は名大に受かる)
  • 全体:PCは閉まった。ゲームをしなかった。
  • Twitter:浪人の人たちとちょっと絡んだりしていた。

大学入学前(家探し変)

あまり記憶がない。クランの人に家探しするときの注意点は?みたいなのを聞いた。
とりあえず、生協を使って3件くらい内見を母親(以降、ママと言います)と一緒にした。
2件臭かったので残った1件にした。(1K,8.5畳、築20年くらいで家賃(共益費込み)が42,000円)

大学1年(コロナ前)

嫌な思い出がいっぱいありますね。
とりあえずは今後出てこなくなる話としてまず1個。
結構入学後から仲良くしてもらっていた人達がいるんですけど、人との距離の詰め方を間違えて、相手を不快にさせてしまって、今後一切かかわらなくなった(カスすぎてごめん)
これにより、所属していたサークル的なやつにもいかなくなって、無事に夏前には家で引きこもって授業の時だけ大学に行く学生の誕生です。

学生は親の脛をかじらせてもらうのは悪ではない、脳が生きているうちに勉強とかいっぱいするほうがいい、という考えなので、バイトはせず、仕送り(月5万円)で生活をしていました。(結局GPA低かったり、プログラミングもあまり成長せずだからでかい顔できないんだけどね…。強いて言えばプログラミング未経験から競プロ水色行けたくらい)
ちなみに、高校時代数オリも何も知らず、PCはネトゲばっかしていて、「プログラミングは大学で学ぶもの」という思想を持っていた俺が水色まで行けたのは、本当にすごいことだと思っている。

大学の授業に対して面白さを感じられず、テキトーに(これは適当ではなく、雑。という意味合いで使ってます)課題をこなして、とりあえず単位をとる生活をしていました。

競プロの話をすると、夏ぐらいに久しぶりに出場したコンテストが、たまたま学生最強コンの予選でした。順位としては2000だか4000位(気になる人は俺のコンテスト履歴見て)で、予選突破はしていないのですが、その時のイベント枠が確か500?ぐらいあって、辞退者の関連とかでなぜかイベント枠に参加できました。
多分、学生最強コンの懇親枠の出場者の中で一番レートが低かったんじゃないかな?と自負しております。
この時の人との出会いとかに若干触発され、イベントが9月30日とかだったと思うんですけど、そこから爆精進(当社比)して、2月ぐらいに入緑しました。(入茶いつだっけ?)。このころのコンテストは、ジャッジの不具合とかでUnratedになるとか、割と悲しい回が多かった時期でした。それにより入緑が少し遅れました。(多分)
1月とか2月は、たしか第一回の技育祭がありました。
もともとはオフラインイベントだったはずが、コロナが始まったことによりオンラインになりました。
なんか悲しいので、東京で会議室的なところ借りてみんなで見ようぜ!的な回を(店長が?)開催しました。
これに参加して、10人ぐらいで会議室で技育祭を見ました(あんまり内容覚えてないけど)。その夜のコンテスト(忌々しいパナソニックプロコン。るーとAぷらするーとBしょうなりるーとCですか?)に会議室で皆で出ました(もちろん不正はしていないです)。

この回には、店長とかこるぼーとかさばさんとかしゃくさんとか、さかきとおるとか、たかぴろとか、まる君とか、(コンテストの時にはすとまとさんとかけんちょんさんとか)もいたんですけど、同じメンツ(全員ではないけど)とまた遊んだりしてました。(残さず書き切らないと無礼かもしれないので可能な限りいっぱい思い出したつもり)

また、3月くらいには別の人を大塚家具に誘って、オフィスチェア見に行きませんか!って感じでオフィスチェアの視座をしにいきました。
あの頃は楽しかったなー。という雑な感想

大学1年まとめ

  • 夏前:人間関係事故る
  • 夏:クランの人と伊豆旅行に行く
  • 夏2:学生最強懇親会に参加。モチベUP
  • 年度末:いっぱい競プロの人と出会う。

大学2年

正直あまり記憶がないな。コロナによってオンライン講義がめちゃくちゃ増えた。あと、マスクの出費が出てきたせいで月500円くらい払うことに不満を覚えた。
しいて言えば、AO入試の二人が友達にいるんだけど、良く車でどこか連れて行ってもらったりした。確か夏に三重だか長野だか忘れたけど、小旅行をした。
あ、あと、クランの人と三重に旅行に行った気がする。志摩スペイン村がガチで過疎っててすごい悲しい気持ちになった。あと、嵐の中キャンプをして不快になった。

6月くらいに、Twitterで知り合った高校生とゲームをよくするようになり、入水はしたものの、競プロの不精進生活が始まる(不精進は今も続いている。)
あ、あと授業でデータベースの授業が楽しくて、その研究室行きたいな~ってぼんやり思った。

大学2年まとめ

  • オンライン講義が増えた
  • 競プロ不精進・入水
  • ゲーム三昧

大学3年

オンライン講義がまだ続いている。うちの大学で最もしんどいといわれている実験科目があるのだが、オンラインが増えたり、嫌な教師が変わったりでちょっと気持ち楽になった。

夏:対面のインターンに参加した。 5日間の短い期間だけど楽しかった。

夏後:地獄の始まりである。 研究室配属→GPAまともに取ってこなかったからデータベースの研究室に入れず、何かよくわからないセキュリティ研究室に入った。→ショックからPSO2 のチームの人と通話しながらめっちゃ酒飲んで意識飛ばす(なに話したか記憶ない)

年度末:研究室配属されたあたりから、ずっと通話アプリをして、寝落ちもしもしをしていた。時々自慰の手伝いをしたりされたりしたが、まぁまぁ面白い人生だと思う。1月末にインターネットで出会った人が、どうやら家出したいらしてくて、じゃあ家来なよ、って言ったら来た。今も一緒です。

大学3年まとめ

  • ボケーっとしてた

大学4年

(大学4年というかそのちょっと前)だけど、夏にインターンに行った会社から、「面接する?」と連絡が来たので、しました。 研究室Slackにて「面接あるので明日休みます」といったら、教授から「お前、大学院に行かないのか」という面談をされ、これを1ヶ月くらい続け、就職する!という意思が研究室全体に伝わりました。そして、その会社から内定をもらい、承諾しました。(いい会社だったら嬉しいな~)

ほぼずっと研究室関連のことに追われていました。ゼミ・ゼミ・ゼミ・自身の研究
死にたくなった。
B3の頃は自身のタスクがないので気楽に研究室の学生部屋に行って作業していましたが、いざ自分の研究が始まったり、家に女の子がいたりすると、学生部屋に行く気も起きず、家で作業をすることが増えました。

大学生活終盤:
死にたい・死にたい・死にたい・死んじゃおっかなー・死んじゃおっかなー・死んじゃおっかなー・死んじゃおっかなー・死んじゃおっかなー・死んじゃおっかなー・あとちょっとで社会人・死んじゃおっかなー・死にたい・殺す・殺す・死んじゃおっかなー・あとちょっとで社会人
12月締め切りの学会に投稿できず、2月締め切りの学会にチェンジ(これにより、3月10日くらいまで研究室に拘束されることが確定。辛い)

1月ごろ:
ゼミで何を報告しても、俺が悪いのか誰が悪いのか、すべてを拒否されているような気になる。
何を報告しても「それ違くない?これやって?」みたいなことの繰り返しで、本当に何もカモが嫌になってきた。
本当に嫌で嫌でどうしようもなくなり、週に合計で1徹夜分ぐらいしか、ひどいときは2,3時間しか作業が出来なくなり、研究に対するモチベが最悪、それくらいでできることしかしない人間になった。
今思っても本当につらかった。本当に死にたかった。

2月頃:
卒業論文と学会用論文の投稿後、新年度の部屋探しをした。研究の進捗はまだまだ必要なのだけど、内見する必要があった。
B3の2月に部屋に連れ込んだ女の子と一緒に内見した。
ちなみに、女がいればすべて解決するかというと、全然そんなことがない。女がいるのに散歩もできず、研究に心を壊される生活というのは、だいぶきつい。

3月頃:
発表は終わった。ただ、研究成果を報告する必要がある(その報告が今日。現在時刻は16時13分、現在も進行中である。)。 そのため、気があまり休まらないが、学会発表の内容をそのまま報告するだけなのでそこそこ気が楽。

学会発表後: 名古屋に引っ越した。毎日荷造りやら荷ほどきやら家具家電を考えている。
研究はもうほとんどやることがないので、めっちゃ気が楽。ただ体の負担としては面白いくらいある。でも全然苦じゃない。

まとめ

こんな感じっすかね

雑にまとめる。
競プロを始めた大学1年、いっぱい人とエンかしたよ。学生コンの懇親会も楽しかった。競プロ強くなるぞ~。ゲームを始めた大学2年、ApeXおもろおもろおもろおもろおもろ。研究室配属B3、これから研究がんばるぞがんばるぞ、え、なんか家に女の子来た。研究で心が死んだB4、あーおれ死にたい、今すっごい死にたい、死ぬこと以外考えられない。え、ウケる。